「え……? いや、俺は絶対に忘れたくないんだけど」
呆然とした表情のまま、圭一が独り言のようにそう言う。
「ほんとに全然怒ってないし。お前の中で嫌なところなんかひとつもない。お前だけが好きだし、せっかくお前と付き合えたんだから絶対に忘れたくない」
「ん……」
その圭一の決意が、無意識すら制御できるなら良かったのに。
「まじで、何で忘れるのかお前、心当たりとかない?」
圭一が真剣な口調でそう聞いてくる。しかし、旭には首を振ることしかできない。
「俺、本当にお前のことがめちゃめちゃ好きだから」
「知ってるって」
眉を寄せて涙をこらえたまま、つい笑いそうになる。
「今までの圭一だって、ちゃんと好きだって言ってくれてたし」
「当たり前だろ」
「うん。でも、だから、それでも忘れてしまうってことは……多分、それとは関係ないんだろうな。忘れてしまう理由」
「……そんな……」
圭一が絶句する。
また、沈黙が下りた。
俯いたまま何度か呼吸を繰り返して、再び緩みかけた涙腺を何とか落ち着かせる。それから、旭はふとあることを思い出した。
「――なあ、だからさ」
「え?」
考え込んでいた圭一が顔を上げる。旭は精一杯、微笑を浮かべて言った。
「だから、俺が慣れてるとしたら、お前としてたからだから。他のやつとなんかしてないから」
「え……あ」
「そんでさ」
駄目だ。笑いながらもまた涙が出そうだ。まばたきして何とかごまかす。俯きがちになりながら、圭一に伝えておきたいことを旭は口にした。その想いを。
「お前のこと好きだって言ったのも……あれ、本当だから」
今度こそ、伝わるだろうか。
「俺はお前が好きだから……」
ちゃんと伝わったら、圭一は喜んでくれるだろうか。
明日には忘れてしまうとしても、今だけは喜んでくれるだろうか――
「――お前」
圭一の声が震えているように聞こえて、旭は顔を上げた。目を見開いた圭一がこちらを見つめていた。
「最近ずっとへこんでたの、もしかして、俺が忘れたから……?」
否定も肯定もできず、旭はただかすかに首を振った。圭一の顔が歪む。
「全部……俺のせいだった……?」
「別にお前のせいじゃ……」
言葉を失った圭一は、ただ旭を凝視している。見開いた目が潤んでいるように見える。
「何……じゃあ、俺はお前と付き合えてて、お前も俺のこと好きで……」
「――」
「……そんで、デートしたりキスしたり途中までセックスしたりしてて……なのに、俺はそれも全部忘れてるってこと?」
「……圭一」
「で、今覚えてるこれも、もしかしたらまた忘れるってこと……?」
言いながら、宙を彷徨うようなその視線は徐々に下へと落ちていった。
持っていたものを失ってしまった旭の喪失感と、失ったことすら覚えていない圭一の喪失感と、どちらが大きいのだろう。深く俯いた圭一の頭。顔は見えない。
「……せっかくお前が好きだって言ってくれたことも、全部……?」
圭一の今感じている失意や恐怖。きっと旭にも充分には分からない。いつも旭に告白する時に浮かべる苦しそうな表情、その心中にあったはずの大きな葛藤。それなのに、ようやく手に入れたことを覚えてすらいないなんて。
「……何で……」
圭一の肩が震えているように見えた。
そして、見つめていなければ気付かないほどひっそりと、雫がひとつ落ちた。