知らぬ間に失われるとしても(28)

10.夏のアルバイト

 夏休みに入るとすぐに、旭の人生初のアルバイトが始まった。
 就業場所は海側の埋立地にある工場地帯の一角で、公共交通機関で通うには不便なところにあったが、従業員のために最寄り駅から送迎バスが用意されていた。
 初日、少し早めの時間に停留所に行った旭は、一番にバスに乗ってさりげなく周りを観察したが、後からバスに乗り込んでくる人達は、その大半が中高年の女性だった。向こう側からも物珍しそうな視線を向けられたので、旭は顔を隠すように窓の外に目を向けた。
 工場では、最初に短期スタッフだけが食堂に集められて、就業上の注意事項やルーティン、シフトのことなど説明を受けた。短期スタッフの年齢層はばらばらだったが、男は少なかった。高校生も旭以外にはいなさそうだった。
 その後、各人の配置部署を発表され、それぞれ現場に入る。旭の配属先には、旭の他にもう一人主婦らしき女性が入ることになったが、意外にも、三名いた常勤スタッフは全員が二十代と思しき若い男女だった。
「こうやって、こう」
 最初に具体的な作業を見せてもらう。次に、実際に同じことをやってみるように言われた。見ていると簡単そうなのに、やってみるとなかなか上手くいかない。失敗したものはラインの裏側ではねられて戻ってくるのでそのまま出荷されることはないが、失敗が続けば当然、完成物が増えない。旭は自分の作業がほとんど役に立っていないことを分かっていた。ただ、初日だからか、特に叱責等を受けることはなかった。
 あっという間に午前中が終わり、交代で休憩に入る。朝集まった食堂に再び戻ると、いつの間にか汗でぐっしょりと濡れていたTシャツが冷房で一気に冷えた。レギュラーのスタッフ達が楽しそうに話す中、旭は端の席で所在なく一人で弁当を食べ終えると、すぐに外へ出た。
 冷房で冷えた体に、外の熱気がむしろ心地良い。快晴の空を見上げながら、何となく圭一のことを思い出した。今日は部活で学校にいるはずだ。
 今ここで空を見上げながら思い出す学校は、何だかとても懐かしく安全な場所のように思えた。見知った同年代の人間だけで構成された、狭くて安心できる場所。その場所から離れ、今日初めて社会に出たと言っていい旭は、無意識の緊張と孤独感で、既に精神的に疲弊していた。初めての場所、初めて交わる違う世代の人間関係、初めての労働。自分はまだまだ子供なんだとひしひしと感じる。
 時間を確認しようとスマホを手に取った旭は、ふとラインを立ち上げた。圭一とのトークを開き、『バイト初日。今休憩中』とだけ送ってみた。
 しばらく待ったが既読にならなかったので、再びポケットにしまい、旭は立ち上がった。

 午後の作業も言われるままに何とかこなし、夕方に再び送迎バスに乗り込んだ。
 とにかく疲れた。明日もバイトの予定だったが、既に気が重い。辞めてしまおうかな、という考えがどうしても頭をよぎる。でもそんなことを圭一には言えない気がして、旭はその選択肢を頭から追い出した。ふと圭一にラインを送ったことを思い出し、スマホを取り出す。確認すると、返事が来ていた。
『お疲れ! しっかり稼いでこい』
 バスが最寄り駅に到着する。見知った風景の中に降り立った瞬間、旭は心底ほっとした。
 きっと部活が終わってすぐに返事をくれたんだろう。あの炎天下で圭一もずっと練習していたはずだ。やっぱり自分ももう少し頑張ろう、と旭は思った。

 次の日もバスに乗って工場に行った。昨日と同じラインに就く。昨日いた三人の常勤スタッフのうち、唯一の男性スタッフが今日はいなかった。どうやら固定のラインではなく総括的な役割を担っているらしい。その代わり、昨日いなかった五十代と思しき女性がいた。かなり口調のきつい人らしく、一緒に入った主婦らしき人に何度も強く注意していた。旭に対してはそうでもなかったが、その叱責を横で聞いているだけで、旭まで胃の辺りが収縮するようなストレスを覚えた。

 次の日に出勤すると、主婦らしき人がいなかった。休みかと思ったが、常勤スタッフの話す内容から、どうやら辞めたらしいことが分かった。大人でもそんなにすぐに辞めるんだな、と少しだけ驚く。しかしその原因も容易に見当がついた。もしかして次は自分が怒られるんだろうかと思ったが、実際にはそんなことはなく、あの言葉のきつい女性スタッフは、旭に対しては多少当たりが柔らかいような気もした。ある程度作業に慣れてきた頃で良かった、と旭は内心で安堵を覚えていた。

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