知らぬ間に失われるとしても(21)

「明日もやる?」
「え? でもお前も勉強あるし」
「いいよ。あ、そしたら俺も古文とか教えてくれよ」
「それはいいけど……」
「基本は自習で、分からないところだけ教え合ってさ」
 多分、圭一は本当にそうしたいんだろう。そう思ったので、旭は頷いた。
「いいよ。ていうか、何で物理ができて古文ができないのか分からんけど」
「はは。そりゃお互い様だし」
「んじゃ、とりあえず自分で続きやってみるから、お前も自分のやれば?」
「うん」
 圭一が自分の鞄から勉強道具を取り出す。旭は麦茶を一口飲んでから、物理の続きに取り掛かった。
 しばらくお互いに自習する。しかし、元から苦手なのでどうしても注意力が散漫になってしまう。解答を考えているふりをしながら、頭の中ではぼんやりと圭一のことを考えていた。シャープペンシルのキャップ側であごをつつく。
 ふと顔を上げると、こちらを見ていた圭一と目が合った。予想しておらず、一瞬びくっとする。
「ん?」
 平静を装ってそう聞くと、じっと旭を見つめたまま、静かな声が返ってきた。
「――ほんとに、俺と付き合う?」
「え……うん」
 というか、本当はもう付き合ってたんだよ。心の中で呟く。
――付き合うことになって、お前は俺を抱き締めて、キスもしてきたんだよ。
 圭一の手が伸びてきて、旭の髪に触れる。圭一の中の戸惑いや怖れが伝わってきて、旭は何も言えず、ただ当然のような顔を作って圭一を見返した。そんなに怖がらなくても大丈夫だから。俺はもうそのことを受け入れたから。
「……少しだけ、触ってもいいか」
「うん」
 旭がそう言うと、圭一はこちらに体を寄せてきて、この前のように旭をその腕の中に閉じ込めた。もしかしたら自分はこれを待ってきたのかもしれない、そう思いながら、旭はじっとしていた。
「――嫌じゃない?」
「うん」
 気付かれないように、少しだけこめかみを圭一の頬に押し付ける。
「嫌じゃない」
 その言葉に力を得たのか、圭一が腕の力を強めた。片手が後頭部に回り、旭の髪を撫でた後、優しく指で梳く。記憶をなくしても同じことをするんだな、と少し面白くなる。
 そうして少し躊躇うような間をおいた後、「……キスしていい?」と聞いてくる圭一に、旭は「いいよ」と答えた。後に続く数秒の沈黙が、圭一の驚きを静かに伝えてきた。
 やがて圭一の手が旭の肩に置かれ、ゆっくりと体が離れた。正面から目が合う。目を閉じるのはさすがに気恥ずかしすぎて、旭はただ視線を落とした。
 少し身をかがめた圭一の唇が、下から触れてくる。前の時と同じように浅く、柔らかく。触れながら、旭が逃げ出さないかどうか様子を窺っている。少しだけ離れては、形や感触を確かめるようにまた何度も押し付けられる。その動きに合わせて旭は少しだけ唇を開いた。
 最終的に舌が触れた時、今度は旭は動かなかった。圭一はやはり旭の様子を窺いながら、遠慮がちにゆっくりと動く。全てを圭一に任せて、旭はただされるままに受け止めていた。今日は元カノのことは思い出さなかった。
――お前にとっては初めてで、俺にとっては二回目のキス。
 何となくそう思った後、何故か自分でも驚くほど切なくなって、旭はそれ以上考えるのをやめた。

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