知らぬ間に失われるとしても(10)

 マンションに着くと、圭一が慣れた様子でオートロックを解除した。旭も後に続き、いつものようにエレベーターではなく階段で三階まで上る。階段を上がってすぐ目の前にあるドアが圭一の家だ。旭がここに来るのは数ヶ月振りだった。
 玄関を入ってすぐの圭一の部屋に通され、何か飲み物持ってくる、と一人で残される。何気なく見回したその部屋は、旭の知っているよりも片付いているように見えた。
「何か片付いてんな」
 炭酸飲料とスナック菓子を持って戻ってきた圭一にそう言うと、「たまたまこの前掃除した」と圭一が答える。
「何か漫画増えた?」
「最近あんま買ってないけど」
 旭と圭一の数少ない共通の趣味が、この漫画だった。勝手知ったる感じで本棚をのぞくと、ちょうど気になっていた少年漫画が並んでいたので、何気なく一巻を取り出してページをめくる。
「これ面白かった?」
「どうかな。まだ始まりって感じ」
「ああ、長そうだよなーこれも」
「持って帰るか?」
「ん、いいや。もうちょっと話進んでから貸して」
 そう言って本棚に戻す。圭一が飲み物を入れたマグカップを手渡してくれる。本棚を背にして床に座ると、圭一は向かいに座ってベッドにもたれた。
「――なあ」
「ん?」
 コップに口を付けていた旭に、圭一が呼び掛ける。何故か、妙に真剣な顔をしている。
「……いや、何でもない」
 そう言って首を振った圭一に、旭は昼間に気になったことをつい聞いてみた。
「そう言えばさ、圭一って中学の時とか好きな子いた?」
「え? 何だよいきなり」
「いや、聞いたことなかったし」
 質問しておきながら、多分いなかったんだろうな、となど思っていた旭は、「いたけど」という圭一の答えを聞いて驚いた。
「え? まじで?」
「いたっていうか、今考えたらそうだったのかもって感じ」
「誰誰? 俺も知ってるやつ?」
「……知ってる」
「てことは同クラだったやつ? まじかー」
 更に追求しようとしていた旭は、しかし圭一が困ったような顔をしているのに気付き、言葉を止めた。そしてそれが男である可能性もあることを遅れて思い出す。
「あー……ごめん、変なこと聞いて」
「――黒崎」
 慌てて謝ってみたが、圭一はそのことは意に介さないように逆に質問を返してきた。
「ん?」
「前に屋上で飯食った時に、言ってただろ。付き合うなら親密になれる関係がいいって」
「ああ、うん」
「元カノとは、そこまでなれなかったのか」
「あー、全然、全く。そんなんじゃなかった」
「でもやったんだよな」
 そう言われて、旭は思わず圭一を見た。もしかしたら責められているのだろうかと一瞬だけ思ったが、その顔を見る限り、そういう意味ではなさそうだった。
「やった、けど」
「一回だけ?」
「いや……」
 思わず言葉を濁す。この前もそうだったが、圭一はこの話になると妙に様子がおかしくなる気がする。
「お前のことだから、どうせ向こうに押されたんだろ」
「はは、まあそんな感じ」
「やっても親密にはなれなかったのか」
「うん……まあ、俺はだけど」
「親密さを感じなかったのに、何回かやったんだな」
「……」
「親密で特別な相手じゃなくても、付き合えたし、やれたってことか」
「……」
 圭一が言葉を重ねる度に、徐々に旭は言葉を失っていった。無意識に口を固く結び、ただ圭一の顔だけを見返す。圭一の表情も口調も決して旭を咎めるようなものではなかったが、しかし問われたその内容は、隠したはずの旭の心の傷を少しずつえぐっていった。ずっと表に出さないように、そして自分自身気にしないようにしていたのに。
 旭は、本当はずっと後悔していた。
 軽々しく赤の他人と肉体関係を持ってしまったことを。
 そして必死にそれを認めないようにしていた。男なんだから、いつかは誰かとやるんだから、性欲だけでやるやつなんて多いんだから。そうやって何度となく自分に言い聞かせていた。それでも、心の奥底に埋めても埋めても、罪悪感は完全には消えなかった。女ではないのに、自分が損なわれてしまった気すらした。そして圭一のその言葉は旭に容赦なくそれを思い出させた。
「……黒崎?」
 圭一に呼びかけられて、再びその顔に焦点を合わせる。心の中に再び現れた重苦しさは、もはや一人で抱えるには大きくなり過ぎていて、旭はついに口に出してしまう。

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