偽りとためらい(96)

 ふと、自分のものではない嗚咽が聞こえてきた気がして、高志は顔を上げた。目の前では、あかりが眉根を寄せながら涙を浮かべて、ハンカチを握りしめていた。
「……何で矢野さんが泣いてんの」
 高志が問い掛けると、あかりは強く首を振って、ハンカチで目を覆う。
「ごめんなさい」
 涙声でそう言った後、高志より激しく泣き出したあかりを見て、高志はしばらく呆気にとられたままその姿を見つめていた。自然と涙が止まり、少しだけ冷静さを取り戻す。
「……大丈夫?」
 思わずそう聞いてしまう。あかりは何度か頷いた後、真っ赤になった目で、「すみません、藤代くんの方が辛いのに」と言った。何となく、茂があかりのことを好意的に話していた理由が分かった気がする。高志は顔を拭うと、あかりが落ち着くまで待った。
「――あのさ」
 しばらくして高志が口を開くと、あかりが顔を上げる。あかりに対する警戒心は、もうほとんど消えてしまっていた。
「細谷が矢野さんに、俺に頼めばいいって言った時って、どんな感じだったの」
「ああ、はい。えっと」
 もはや知らないふりをする理由もなく、高志は茂の名前を出した。あかりも特に否定することもなく話し出す。
「私がベッドシーンを書くことに煮詰まって、後学のために経験を積みたいけどどうやって相手を探したらいいか分からないとかそういうことをうだうだと話していたら、細谷くんが笑いながら『一人思い付いた』って言って……もちろん誰とは言わなかったですけど、『優しすぎるくらい優しいやつだから、きっと真剣に頼めば引き受けてくれると思う』、って感じでした」
「それ、いつ頃の話?」
 あかりは少し考えた後、「去年の年末です。サークルの忘年会で」と答えた。それから気付いたように付け足す。
「……あの、ちなみに、細谷くんはその時は結構酔っていたと思います」
 高志は無言で頷く。自分が茂と寝たことを、茂はそういう風に解釈していたのだと知った。そしてふと思い付き、顔を上げる。
「矢野さん、あいつの連絡先とか知らないよね」
「え? はい、ラインなら」
「ちょっと前に携帯変えたらしくて、前のラインだったら多分消えてると思う」
 高志がそう言うと、あかりはスマホを取り出して確認したが、やがて頷く。
「そうですね」
 それを見て、高志は小さく溜息をついた。


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