知らぬ間に失われるとしても(32)

 大した理由でもないのに辞めていいのだろうか。言い訳にして逃げているだけじゃないか。それともバイトなんてそういうものなんだろうか。普通はどうするものなんだろう。圭一だったら。
 その夜、旭はいつの間にか寝落ちするまでずっとぐるぐると考え続けたが、結局、結論らしい結論は出なかった。
 翌朝に起床しても、やっぱりまだ迷いは残っていた。
 しかしいつものようにバスに乗ってバイト先に着くと、旭はそのまま事務所に行って、緊張しながら、父親に教えてもらった台詞をそのまま口にした。
 そして父親の言うとおり、あっさりとその日で辞められることになった。特に嫌味を言われたりすることもなく、「短い間だったけどお疲れ様」と声を掛けられすらした。それは、もともと高校生なんていい加減だろうとの偏見を持たれていたところ、実際には毎日黙々と真面目に働いていたことや、突然来なくなったりせずにきちんと退職を伝えに来たことがかえって評価を上げることになったからだったが、そんなことは今の旭には知る由もなかった。

『良かったな』
 その夜、辞めたことを圭一にラインすると、そう返ってきた。
『何か逃げたみたい』
『逃げて当たり前だろ。セクハラされてたんだから』
『父親にもセクハラって言われた』
『もう変なやつに触らせんなよ』
 別に触らせている訳じゃない、と反射的に反駁する。
 本当は、セクハラから逃げたというよりはバイトの重圧から逃げたのだということを、旭は自分で分かっていた。でも圭一にはそれを言えなかった。とりあえず、話題を変えて返信する。
『暇になったから宿題やる』
『えらい』
『お前も部活頑張れ』
 りょーかい、とスタンプが返ってきて、そこで今日の遣り取りは終わった。

 突然暇になった夏休みの続きを、旭は存分にゆっくりと過ごした。一度働いてみれば、その後の穏やかな生活がとてもありがたいもののように思える。バイトしている間は手付かずだった夏休みの宿題を少しずつ進め、たまに友達と遊んだりした。
 翌週の日曜日にも、また圭一と会った。圭一は連日の部活でかなり日焼けしていて、何となく引き締まったように見える。
「USJ、いつにする?」
「夏休みだからあんま関係ないかもだけど、土日よりはまだ平日の方がましかな、混むの」
「かなあ。でもお前、まじで部活休めんの?」
「大丈夫だって。みんな適当に休んでるし」
 好きな漫画をテーマにした期間限定のアトラクションを、旭はかなり楽しみにしていた。スマホでサイトを見たりしながら、当日のことを話し合う。
「花火も見たいな」
「そう言えば、ゾンビって夏はいなかったっけ?」
「それハロウィンとかじゃね?」
「あーそっか。残念」
 それからふと気付いたように、
「花火見たいなら、この前の花火大会一緒に行ったのに」
と圭一が言った。
「そうなんだよ。バイトでばたばたしてたらすっかり忘れてた」
「はは、ちょうどその時期だったよな」
「行った?」
「いや、行ってない。来年行くか」
「あ、うん」
 来年、という言葉に少しだけ引っかかったが、何でもない振りをして旭は頷く。
「まあ、その分もUSJで堪能するわ」
「おう」
――来年の今頃も、こうやって圭一と一緒にいるのだろうか。恋人として?
 少しだけ考えてみたが、今の旭にはそうだとも違うとも全く予想できなかった。

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