知らぬ間に失われるとしても(31)

 月曜日の夜、夕食を食べ終えた旭は、何でもないふりをしつつ食卓に残っていた。今日は珍しく父親の帰りが早くて、逆にうるさい姉が外食でいない。好都合だった。
「……あのさ」
 母親がキッチンに立ったタイミングを見計らって、テレビを観ている父親にさりげなく声を掛ける。
「ん?」
「……セクハラ、って、どういうの?」
 振り返った父親は、旭の問い掛けに何か考えるように一拍置いた後、
「相手の嫌がることを言ったり、見せたり、聞いたり、体に触ったりすることかな」
と答えた。旭のケースがそのまま当てはまっていることにどきりとする。
「そういうのって、どのレベルからセクハラになんの」
「基本的には、された側が嫌だと思えばセクハラになる」
 昨日圭一に言われてから、何故か旭の頭にはその言葉がずっと残っていた。
 バイト先で、やはり今日も、例の女性は旭に話し掛ける時に肩に手を置いてきた。もしかしてそれが癖なのかと思って注意していたが、旭の見る限り、他の人にはそういうことはしていない。気にすまいと思えばできる程度なのに、その言葉を知ればもう無視するのも難しかった。
「もしセクハラされたら、どうするの」
「例えば会社とかだと、相談室みたいな部署があって、そこに訴えたりするな」
「……へえ」
 バイト先にそんなものがあるようには思えない。あったとして、言ったらどうなるのか。というより、言ったところで取り合ってもらえるのか。男が肩や背中に少し触られる程度のことを。
「まあ、お前みたいな短期バイトだと、そういう対応も難しいかもしれないけどな」
 さらっと父親がそう言う。直接質問してこないのは、もしかしたら気を遣われているのかもしれない。
「いや、まあ、別にそんな大したことじゃなくて。何か、たまに肩に手を置かれるとかその程度なんだけど」
 なるべく軽くそう言ってみたが、「お前が嫌だと思うなら我慢する必要はない」と、圭一に言われたのと同じことを言われる。
「でもさ……言ったら余計面倒なことになりそうだし」
「被害者がそう思ってしまいがちなのも、セクハラの難しいところだな」
「……」
 旭は黙りこんだ。庇う訳ではないが、あの女性だってそこまでの悪意があってやっている訳ではないだろう。おそらく旭が不愉快に思っているとすら思ってないだろうし、もし嫌だと伝えればやめてくれると思う。ただ、それを伝えるのがどうしても難しく思えてしまうだけだ。
「もし父さんが俺だったら、こういう時どうする?」
「――そうだな。俺なら辞めるかな」
 あっさりとした答えに、旭は少し驚く。
「正社員とかレギュラーのバイトなら違う対応もあるかもしれないけど、まあ短期だしな。こっちが黙って身を引くのが一番円満に終われるだろ」
 旭の時給だと、バイト代は一日約七千円になる。もしすぐに辞めても今までの分で四・五万円は稼げているはずだった。つい、もういいかな、という方向に考えが流れてしまう。
「……辞めるって、どうすればいいの」
「短期バイトだし、口頭で『辞めます』でもいいんじゃないか。言いにくかったら形だけ退職届書いてもいいけど」
「言ってすぐに辞めてもいいの?」
「法的には二週間前とか色々あるけどな。短期だとまた違うし、どっちにしろ現実的にはあってないようなもんだな」
 三日目に来なくなった主婦の人が頭に思い浮かぶ。そんな旭を見ながら、父親が問うてくる。
「お前、もしそのセクハラがなかったら、バイト続けてたか」
「え……うん。一応、お盆までって思ってたけど」
 質問の意図が分からないままに答える。父親は頷いた。
「初めてにしては頑張ったんじゃないか。辞めたいなら俺は反対しない」
「……うん」
 更に気持ちが揺れる。
「もうシフトみたいなのは決まってるのか」
「一応、週五って言ってる」
「とりあえず、今回に限らず、勤め先に迷惑掛けるような辞め方はなるべく避けろよ。予定が決まってるなら言うのは早い方がいい」
「……うん」
 しかし、考えると気が重い。黙って働き続けた方が楽なんじゃないかとすら思えてくる。
「辞めるって伝えて、理由を聞かれたらどうしたらいい?」
「適当に言っとけ」
 旭の表情を見て、言葉を付け足す。
「あのな、その会社では短期バイトなんて毎年何人も雇ってるんだろ。いちいち一人一人の退職理由なんか気にしてると思うか? 辞めるって言ったら『はいそうですか』で終わりだよ」
「でも、理由も言わずに『辞めます』だけも変じゃないの、逆に」
「だから、方便って言うだろ。適当にそれらしく言えばいい。例えば『田舎の祖母が入院して手伝いに行かないといけなくなった』とかな」
 実際には病気しそうもない祖母を思い出したのか、父親は笑いながらそう言った。

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