続・偽りとためらい(40)

 店を出てから二時間弱、自宅の最寄り駅が見えてくるまで、高志は歩き続けた。冬の夜にもかかわらず、体は熱を発してシャツの中で汗が流れていた。
 ひたすら歩くことで、ほんの少し気分が好転した。忘れてしまえた訳ではなく、希望を見出した訳でもなく、ただ心が麻痺したように、冷めた気持ちでありのままを受け止め始めていた。涙はもう出なかった。
 歩いてきた静かな住宅街から駅前通りへ出ると、視界が一気に明るくなる。
 自宅マンションに入る前にいつも立ち寄るコンビニに寄り、缶チューハイ数本とペットボトルの水を買った。強い喉の渇きを覚えていた。店を出るとすぐにキャップを開けて、一気に半分ほど飲む。冷たい水が沁みわたるように体の中を落ちていった。
 それから、のろのろとマンションまで歩く。オートロックを解除してエントランスを抜けると、エレベーターに乗り込んだ。
 八階に着くと、鍵を取り出しながらいつものように左に折れた高志は、その瞬間に視界に入った何か異常な気配に、ぎくりと足を止めた。
 何かが――誰かが、自分の部屋の前に座り込んでいる。その影が振り向く。
「――あれ。帰ってきた」
 茂だった。
 言葉を失って立ち尽くした高志を見上げながら、そこにはいつものように笑顔を見せる茂がいた。
「居留守使ってるか、じゃなかったら彼女のところに行ったのかと思ってた」
「……何してるんだ」
 廊下に座り込んでへらへらと場違いに笑う茂の横には、蓋の開いたビールの缶が置かれている。その様子からしても酔っているようだった。
「何って、お前を待ってたんだよ」
「……」
 高志は驚きと混乱の中で現状を把握しようとした。何故か、ここに茂がいる。ついさっき、もう二度と会わないと決心した相手が。今一番会いたくない人間が。
 ようやく少しだけ薄らいできた苦しみがまた再燃しそうで、思わず湧き上がってきた苛立ちに、高志はぎゅっと眉根を寄せた。
「寒いからさ、あったまるかと思ってアルコール飲んだけど、逆だったわ」
 高志の様子に頓着せず、茂は能天気な口調でそう言うと、ふらっと腕を高志の方に伸ばしてくる。起こせということらしかった。
 差し伸べられた手を前に、一瞬、高志は躊躇した。振り払うところを想像する。何故この状況で無邪気に自分に腕を伸ばせるのだろう。怖くはないのだろうか。口元は笑ったまま、茂の目はじっと高志の方を見上げている。
「……」
 結局、無言のまま、高志は茂の手を取った。その手は氷のように冷たい。高志の力を借りて立ち上がった茂は、少しふらついてからバランスを取り戻した。高志は手を離すと、低い声で言った。
「……帰れよ」
「体冷えた。トイレ貸して」
 相変わらずの薄ら笑いのまま、重い空気も読まずに茂がそう言う。しかし高志にはもう分かっていた。茂のその振る舞いは、本当は全て理解してのことに違いなかった。
 結局、拒否しきれずに、高志は鍵を差し込んでドアを開けた。靴を脱ぎ、何も言わずに中まで進んで部屋の電気を点ける。一度も振り返らなかったが、玄関の扉が閉まる気配がした後、玄関横のトイレのドアが開閉する音が聞こえてきた。

PAGE TOP