偽りとためらい(92)

「もう一杯だけ飲んでいい?」
 料理をあらかた食べ終わった頃、茂がそう言うので、高志の分も一緒に飲み物を注文した。すぐに運ばれてきたそれを少しずつ口に運びながら、しばらくして茂が切り出す。
「お前に言わないといけないことがあるんだ」
「……うん」
 その口調から、その話が今日の茂の表情を曇らせていた理由なのだろうと思い、高志は少し身構えた。
「今日、卒論提出してきたんだ」
「え?」
 それはむしろ喜ばしい話題ではないかと思ったが、茂の表情は変わらず暗いままだった。もちろんこれは本題ではないのだろう。
「そうなのか。めちゃめちゃ早いな」
「うん。……それで、もうゼミに出る必要がなくなるから、ちょっと早いけど実家に帰ることにした」
「え……ああ、そうなんだ。年明けまで?」
「……分からないけど」
 茂はそう言うと、俯いた。
「もしかしたら、就活でまたこっちに来るかもしれないけど。基本的にはもうずっと向こうにいると思う。年明けももうゼミには行かない。今日、先生にも許可もらってきた」
「……へえ」
「引き続き求人の情報は集めるつもりだけど、これから年末調整とか確定申告とかで業界全体が繁忙期だから、新卒の求人の新しいのはもうしばらく出ないと思うんだ。今この辺で出てる求人はもうほとんど見尽くしたから、今度は実家の方でも探してみようと思ってる」
「……」
「それでももし春まで内定がもらえなかったら、当分はそのまま実家にいて、バイトでもしながら勉強することになるかもしれない。新卒っていうのが特に武器にならないんだったら、4月にこだわる必要もないし」
「……でも、さっき言ってたところ、採用かもしれないだろ」
「うん。そうなったらいいけどさ」
 茂は顔を上げると少しだけ笑って、しかしまたすぐに俯いた。
「だから……せっかく誘ってくれたけど、卒業旅行、行けないと思う。……ごめん」
「そんなのは別にいいけど」
 その後に続く言葉を、高志は見付けることができなかった。そのまま、グラスを持つ茂の手だけをじっと見つめる。表面に浮いた水滴が流れ落ちて、茂の指を濡らしている。
「……そっか」
「……うん」
 あと数か月で卒業だと分かってはいたが、思ったよりずっと早く訪れた茂との別れに、高志は言葉を失った。今まで、そこまで具体的に卒業後のことを考えていなかった。何となく、茂とは卒業してもたまに会ったりして付き合いが続くのだろうと思っていた。高志の勤務地がどこであれ、たまに帰省した時に茂とも会ったりするんだろうと。でももし茂が実家の方で就職することになれば、そんな機会すらほとんど持てなくなる。
 こんな時、今まで自分はどう対処していただろうか。今までだって節目節目で別れはあったはずなのに、その時何を考えていたのかまるで思い出せない。高校卒業の時には遥香がいた。それだけで、高志は何の不安もなく環境の変化を受け入れることができた。それと同じように、社会人になっても茂ともこのままいつでも会える関係でいられると思っていた。茂がこちらで就職すると勝手に思い込んでいた。
 一つ返事待ちだというその就職先が無事決まればいいのに、と高志は心の底から思う。茂ではなく自分のために願った。一度実家に戻ったら、来年以降にもし就職活動を再開したって、この地域に限定する理由が茂にはなくなる。実家を離れるのなら、他のどの場所だって茂にとっては同じではないだろうか。そんなことになったら――
「あと、もう一つお前に言いたいことがあって……何か、あらたまって言うのも変だけど」
 茂が静かに話し始めたので、高志ははっと顔を上げる。茂がこちらを見ていた。
「あ、何?」
「俺、この大学に来てさ、お前に会えて、四年間一緒に過ごせたの、すごい楽しかったよ。楽しかったし……」
 茂の言葉が途切れる。次の言葉が上手く見つからない気持ちが、高志にもよく分かった。それは簡単に一言で言えるようなものではなかった。しばらく考えていた茂も、結局諦めたようで、ごく簡単に言葉を締めた。
「お前と友達になれて本当に良かったと思ってる」
「そんなの俺も同じだから」
 高志の言葉に、茂がまた笑う。少し潤んでいるようなその目をこのまま見続けたら自分も我慢できなくなりそうで、高志は目を逸らした。自分もきちんと感謝を伝えたいと思っても、声を出すことができなかった。
「あと、色々変なこと……言ったり、したりして、ごめんな」
「いいって。そんなの、もう」
 それすら今となっては些末なことのように思える。もし茂がもう一度こちらに戻ってくると約束してくれるなら、あと何回したっていいとすら思った。おかしなことを考えていると思いながらも、それは紛れもない高志の本心だった。


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