偽りとためらい(37)

第14章 二年次・12月

 月曜日が来て、火曜日が来て、水曜日が来て、木曜日が来た。その間、高志は努めていつもどおり授業に出て、たまに朝にバイトに入り、授業が終わった後に部活に出て帰宅した。学校やバイト先でやるべきことをやったり人と話したりしていると、少しだけ楽だった。一人になると、今まで経験したことのないほど深い後悔や自己嫌悪、絶望感に苛まれた。
『好きな人ができたの』 
 あの日、別れたいと言われて理由を聞くと、遥香はそう言った。
 夜に一人で自分の部屋にいると、毎晩そのことを何度も何度も思い出した。思い出すのをやめたいのに頭から離れなかった。眠ることで意識を失ってしまいたくても、眠ることができなかった。
 その日まで遥香は自分のものだったのに、そう信じて疑いもしていなかったのに、遥香のその言葉によってその瞬間、高志と遥香の絆が断ち切られた。その時の衝撃を、何故か自分の心は何度も何度も繰り返し思い出そうとし、可能な限りの生々しさで再現した。そうやって高志の記憶は何度でも高志を傷付けた。遥香の中でその絆は徐々に細く薄くなっていたのに、高志はそれに気付けなかった。どこかで気付いていたらこんなことにはならなかったのに。
 その時の衝撃は覚えているのに、その言葉を口にした時の遥香の表情は全く覚えていなかった。覚えているのは、ベンチに並んで座ったまま、いつの間にか高志の横で泣いていた遥香の姿だった。顔は見えなかった。嗚咽がかすかに洩れていて、その度に髪が少し揺れていた。
『……遥香』
 高志が肩に触れると、遥香が少しだけ顔を上げた。そのままつい抱き寄せようとして、少しだけ躊躇したら、遥香の方から高志の胸にしがみついてきた。思いがけず腕の中に帰ってきた自分の恋人の体を、高志は夢中で抱き締めた。
『遥香』
 腕の中で震えながら泣く遥香が、その身で今自分に求めているものを高志は知っていた。それを遥香が必要とするなら、自分は今もこの先も、いつだってそれを提供できた。自分の腕の中で安らげるのなら、このまま永遠に自分の中にいればいい。そこにはさっき失われたと思った絆があった。やっぱり今でもあった。こうして抱き締めていれば、遥香はこのまま自分の元に留まるだろうと思えた。遥香の髪に口付けて、そのまま顔を埋めた。
『……高志くん』
 しばらくして、遥香が身じろぎした。腕の中で少しだけ顔を上げた遥香に、高志は自然に唇を寄せた。遥香もそれを求めていると思った。
『……今までありがとう』
 しかし遥香はそう言うと、その腕で高志の胸をそっと押して身を離した。
 遥香からのその静かな拒絶に、高志は思考停止したまま、黙って腕の力を緩めた。
 遥香が再び高志の腕の中から出て行こうとしていた。そして今度はもう戻って来ることはないのだと分かった。 

 どうしてあの時自分で腕を離したのだろう。
 どうしてあの時キスしなかったのだろう。
 その最後の別れの瞬間を、後から考えて何度も後悔した。遥香の意思を尊重したが故の自分の行動は、しかし今考えれば致命的な誤りのように思われた。手を離しさえしなければ遥香は離れていかなかったのに。あの時キスしていれば。もう一度遥香の唇に触れて熱を伝えていれば。高志は遥香とのキスを思い出した。数えきれないくらい重ねた唇。湿った舌。息遣い。
 そして遥香の体を思い出した。声を、匂いを思い出した。今ならまだそこにあるかのように全部思い出せた。遥香の温もりも、柔らかさも全部。何度も抱いた体。その繊細で複雑な曲線、その動き、自分を呼ぶ声。突き上げる度に揺れる柔らかい膨らみ、自分を締め付ける中の熱――
「……っ」
 気が付けば、電気もつけないままの暗い自分の部屋のベッドの上で、呼吸を乱し、高志は自分の手で果てていた。横たわったまま、少しずつ落ち着いていく自分の呼吸だけを聞いていた。さっきまで思い出していた純粋に肉体的な記憶の生々しさは既に遠ざかり、この先もう二度とあの体を抱くことはできないのだという事実を何度目かで思い出す。高志は目を閉じて、絶望と孤独をやり過ごした。


PAGE TOP