知らぬ間に失われるとしても(44)

 その数日後、四時間目が終わって鞄から弁当袋を取り出した旭は、かすかに教室の空気がざわめいた気がして、ふと顔を上げた。
 柏崎が入り口のところに立っている。クラスメイトからの注目を意にも介さず、すぐに旭を見付けて、真っ直ぐにこちらに近付いてくる。
「黒崎くん、ちょっと来て」
「え?」
 机の上に置かれていた旭の弁当を見ると、人質のように柏崎はそれを手に持った。
「今から食べるんだろ」
「え、ちょっと」
 手を引くように旭を立ち上がらせ、腕を引いて歩き出す。旭もとりあえず後について教室を出た。
「ちょうど良かった。一緒に食べよう」
「……いや、でも」
「大丈夫。原は一緒じゃないから」
 その言葉を聞いて、ああ、柏崎は全部分かってるんだ、と理解する。
旭が力を抜いたのを感じたのか、柏崎は少しだけ振り向いてから旭の腕から手を離した。
「ちょっと購買寄ってもいい? まだ何も買ってないんだ」
「あ、うん。いいよ」
 圭一抜きで柏崎と二人になるのは、多分初めてだ。何か話があるとしたら圭一のことだろう。圭一はいないとわざわざ伝えてきたことから考えても。
「別に学食でもいいけど」
「いや。周りに人がいない方がいいし」
「あ、そっか」
 並んで歩いていると、ふいに柏崎が謝罪の言葉を口にした。
「――ごめん。もしかしたら今頃は教室で変な噂されてるかも」
「え?」
 柏崎に関する噂のことを思い出す。でもそれは柏崎が謝るようなことじゃない。
「別にいいよ、そんなの」
 旭が答えると、柏崎はこちらを見て少し笑った。普段あまり笑わない柏崎が珍しく見せたその笑顔の優美さに、旭でさえ思わず目を奪われた。

「……圭一のこと?」
 屋上の片隅に並んで座り、とりあえずは昼食を取る。旭はなるべく何気ない口調で問うてみた。
「あいつ、変だよな」
 頷いた柏崎も、何でもないことのように返してくる。
「昨日、あいつに相談されてさ。好きなやつがいるって」
 箸を持つ手が一瞬止まる。それは誰のことなんだろうか。――嫌だ。聞きたくない。
「けど俺、その話聞くの、もう三回目なんだよね」
 その言葉に、旭は思わず顔を上げる。
「さっさと告白しろよって言ったら、可能性のない相手だから悩んでるって。いっつも同じ返事」
「へえ……そうなんだ」
 そのまま、柏崎はカツサンドを一切れ食べ終えるまで口を開かなかった。
「――黒崎くん、あいつと付き合ってたんじゃないの」
 今度は旭は口をつぐむ。そう、付き合っていた。二学期が始まるまでは。
「うん。……でも俺と付き合ってたことだけ、全部忘れてるみたい」
 そしてふと付け足す。
「柏崎くんも、やっぱり何かおかしいって思ったんだろ? それって俺以外のことでも?」
「いや、俺が気付いたのも黒崎くん関連。同じ相談を初めてみたいに何回もしてくるし」
「そっか」
 旭は手元に視線を戻した。
「多分……全部なかったことにしたいんだと思う」
「……」
「俺が駄目なのか、相手が男ってところからもう駄目なのかわからないけど。心の奥底では認めたくないのかも」
「さあ……何とも言えないけど」
「全部忘れちゃうんだから、よっぽど嫌なんだろうな」
「でもそれなら、黒崎くんを好きってとこから全部忘れるんじゃないの?」
 顔を上げると、柏崎はこちらを見ずにサンドイッチを咀嚼している。はっとするほど造作の整った顔。圭一は、こういう完璧な顔を毎日間近で見て、好きになってしまったりしないのだろうか。
「……俺のこと、まだ好きって言ってた……?」
「――」
 柏崎は答えようと口を開いたが、一拍おいてから、
「まあ、それは本人に聞きなよ」
とだけ言った。
「……うん」
 本人がまだそんな気持ちを抱いていれば、だ。
 変わらず好きなのなら、そもそも忘れる必要なんかないじゃないか。柏崎はイエスともノーとも言っていない。
「黒崎くんはさ、原のこと好きなの」
 直球で聞かれたが、嫌な感じはしなかった。旭は照れもごまかしもせずに答えた。
「これが好きって気持ちかどうかは分からないけど……付き合わないより付き合ってる方がいい」
 そして逆に問い掛ける。今なら聞ける気がした。
「柏崎くんは、男が好きで男の人と付き合ってるの?」
「ゲイかってこと?」
「まあ……うん、いや、女の子とも付き合えるのかなって」
「うん。付き合えると思う」
「あっ? そうなんだ」
「付き合ったことないけど」
「好きになったことは?」
「あるよ。て言っても小学生の時だし、今好きになるのとは違うんだろうけど」
「男の人を好きになった時、好きだって思った?」
「うん」
「自分で分かった?」
「うん」
「……そっか」
 自分もこんな風にはっきりと言えていたら、こうなってはいなかったのかな。またいつものネガティブ思考へと陥る。

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