知らぬ間に失われるとしても(43)

13.柏崎

「黒崎!」
 階段を降りようとしていたところをぐいっと後ろから腕を引かれて、旭は反射的に振り向いた。振り向く前から誰なのかは分かっていた。
「……圭一」
 その後ろには柏崎もいて、こちらを見ている。圭一はいつものように明るく笑っている。
「次、体育?」
「……うん」
「今日、昼飯食う?」
 二学期が始まり、すぐに午後の授業も再開し、もう二週間が経とうとしていた。圭一には既に何度か昼食を誘われていたが、旭はその度に理由をつけて断っていた。
「――ごめん。クラスのやつらと学食行く約束してて」
 怪しまれない程度に目を合わせ、微笑のようなものを作りながらすぐに逸らす。圭一の、何も知らない――何も覚えていない能天気な笑顔が、今は辛い。
「まじかよ。最近多いな」
「……ごめん」
「いや、別にいいけどさ。んじゃまた今度な」
「うん」
 圭一と付き合っていない今、昼休みの約束さえしなければ、圭一との接点はほとんどない。廊下で偶然すれ違うことがあるくらいだ。だから旭は廊下を歩く時にも注意深く圭一の気配を避けるようにしていた。今日は階段から降りてきていた圭一達に気付くことができなかった。
――ずっと何回も断ってるのに、全然気にしてないみたいだな。
 更衣室に向かいながら、ここしばらくの間に嫌というほど味わった陰鬱な気分を、飽きもせずにもう一度味わう。
 あいつにとっては、気にするほどのことでもないんだろう。
 夏休み最後の日。旭の犯した失敗。そして翌日には、圭一はまた旭とのことを忘れていた。
 きっと俺が悪かったんだろう。
 圭一の向けてくれた好意と同じくらい強い気持ちを、もっと早く旭も持てていたら良かったのかもしれない。そしてそれを伝えることができていれば、こうはなっていなかったのかもしれない。
――それでも、もう恋人と言える大切な存在にはなっていたのに。
 更衣室の扉を開けると、そこには既に多くの男子生徒が集まっていて、騒ぎながら着替えている。旭も空いている棚を見つけて荷物を置いた。周りのクラスメイトの明るいノリについていく気になれず、一人黙々と着替える。
 圭一は何も覚えていないのに、旭だけがずっと引きずったままだ。
「俺のこと好きだって言ったくせに……」
 室内の喧騒に紛れて、そう呟いてみる。
 お前がそう言うから、その気持ちが伝わってきたから、それが嬉しかったから、俺はお前に抱かれようと決心したのに。
 何度考えてもどうすれば良かったのか分からない。あの日のあの触れ合い。
――お前にとっては、忘れてしまいたいようなことだったのか。
 俺をこんな風にしておいて、自分だけ全部なかったことにするのか。

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