偽りとためらい(1)

第1章 現在

 高志が座敷に上がると、一瞬だけ、ふっと空気が変わった。
 めいめいに席の近い者同士で話していたゼミ生達は、高志が目に入ると少しだけ様子を窺うように会話を止めたが、それでもその一瞬の沈黙を高志に悟られまいとするように、すぐにそれぞれの会話に戻っていった。
 なるべく時間ぎりぎりに来たつもりだったが、まだ数名が来ていないようで忘年会は始まっておらず、高志はその場の雰囲気に何も気付いていないふりをしながら、座敷の奥に進み、空いていた一番端の席に着いた。
――やっぱり来ない方がよかったかもしれない。
 周りの席の同級生達に少し申し訳なく思いつつ、なるべく無表情を保つようにしながら、荷物を畳の上に置いて薄い座布団に腰を下ろす。隣の席の男は、殊更に会話に夢中になっているふりをして高志の方を見ないようにしているようだった。斜め前の男は、それでも高志の方を見て「おう、藤代」と少し微笑んで見せ、その後は同じように会話へと戻っていった。二人とも、約二年同じゼミに所属していた、そう、しばらく前までなら友達と呼べる関係の人間だった。……今は、もう何を話していいのか分からない。
 そうこうするうちに、入口付近が騒がしくなる。遅れていたメンバーが揃ったようだ。
「生の人ー!」
 店員がドリンクの注文を取りに来て、幹事の一人が取りまとめる。生ビールや烏龍茶などがそれぞれ数えられて注文される。
 すぐにグラスが運ばれてきて、配られた。高志もビールジョッキを受け取り、そのまま乾杯の音頭を待った。
「それでは、須藤ゼミ生の前途を祝してー、かんぱーい!」
 かんぱーい! と、全員がグラスを掲げ、それから近くの席同士でグラスを合わせあう。高志も、無言で隣と向かいとジョッキをぶつけた。例え社交辞令ではあっても、今の状況で高志とも杯を交わしてくれる二人の気持ちがありがたかった。二人も高志と何を話せばよいのか内心戸惑っているのだろう。それを顔に出さないようにしながら、できる範囲でさりげない対応をしてくれているのだろう。
 引き続き高いテンションで会話を再開した同級生達の中でなるべく気配を消すように心掛けながら、高志は箸を手に取り、つきだしの小鉢を少しずつ食べ始めた。

『ふじしろ』
――喧噪の隙間から、ふと名前を呼ばれたような気がした。
 もちろん空耳と分かっていた。
 その声の持ち主は今日は来ない。多分もう会うことはない。

 宴も進み、座敷の中もいよいよ騒がしくなっている。運ばれてきた料理を順調に平らげて空腹もある程度満たされ、人も動いて、それぞれ好きなメンバーで固まって話に興じていた。
「藤代くん」
 一人、端の席に座ったまま黙々と料理を食べ、得意ではないビールを少しずつ飲み進めていた高志は、名前を呼ばれて振り向いた。もともと高志の近くに座っていた男達はとっくに席を移動しており、向こうの方で歓談に熱中している。そして空いていた隣に小柄な女子が座って、こちらを見ていた。手には烏龍茶らしきグラスを持っている。
「……矢野さん?」
 同じゼミに所属しているため当然名前は知っている。矢野あかり。いつも静かで、あまり目立たないタイプの女子だった。何回か話したことはあるが、それほど親しくはない。そんなあかりに話し掛けられ、高志の声には若干の訝しさが含まれた。何で俺に話し掛けるのだろう。しかもこんな時に。
「……どうかした?」
「お疲れ様です」
 あかりは手に持っていたグラスを高志の手元に傾けてくる。高志も黙ってジョッキを手に取り、軽くグラスにぶつけた。
「食べてますか?」
 あかりはグラスをそのままテーブルに置き、少し微笑みながら問いかけてくる。同学年の彼女は、いつも誰に対しても何故か敬語だ。スカートに包まれた膝を曲げて抱え込み、畳の上で体操座りの体勢になる。
「まあ、ぼちぼち」
 もしかしたら、騒がしい雰囲気を避けてこちらに避難してきたのだろうか。あるいは高志が一人なのを見兼ねて話しかけに来たのだろうか。あかりも普段からあまり特定のメンバーとつるんだりすることがなかったようだから、何となく場から浮いてしまったのかもしれない。
 気にしないようにしてはいても一人でいることに居心地の悪さを感じていた高志は、あかりが話し掛けに来た理由が分からないながらも、それなりに応じることにした。

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